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有元利夫展を観る前に知っていると面白いかも知れない幾つかの事柄 #1 [ART]

2010年07月25日(日曜)
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 この日、以前からず~っと楽しみにしていた『有元利夫展・天空の音楽』を観に、東京都庭園美術館へと出掛けました。有元さんの展覧会は、実は今年の2月末にも三番町小川美術館で観ているわけなのですが、その時はデッサンや木彫などばかりの展示で、習作的なものを除くと油彩はほとんど無しでした。と云うのも、今回の没後25周年展が1月30日より郡山市立美術館で既に始まっていたため、小川美術館収蔵の有元作品はそっくり貸し出されてしまっていたです。と云うことで、有元芸術の本丸であるタブローを見るのは実質これが初めて。僕は彼の絵の前に立って、何を思い、どんな音楽を聴くでしょうか。




 さてさて、当初は上の書き始めの様に、普段そうしている通りに、展覧会で観て気に入った作品を数作挙げて、その感想など、取り留めのない事をつらつら書けばいいと考えていたのですが、どうも上手く進みません。特に今回は、絵から聴こえて来るハズ(?)の音楽にばかり気持ちを捕らわれてしまっているのか、何だか全てがぎこちないのです。日がな一日、ぼーっとバロックばかり聴いてみたりもして(^^;。所詮、僕はjazzっぽいの、なヒトで在って、ずっと以前からバッハが大好き!ってワケじゃないんだから、無理もない事なんですけど・・・(苦笑)。

 まぁ、ここで書いていることなど、全て僕自身が自分のお勉強だと納得出来ればそれで構わないのですが、何だか無理して余所行きなコトばかり書いているのに気付くと、自分でしらけて、ツマラナくなってしまったんですね[ふらふら]。こんなコト書いていても、僕が有元さんの絵にワクワクする気持ちなんて、到底他の人に伝えられそうもない。そもそも、僕が有元利夫、有元利夫とこの場で画家の名前を連呼してみても、読んで下さる皆さんの中には「それって、誰?」と、今ひとつピンと来ない方も居られることでしょう。

 そこで、初めに書き進めたものはざっくりと切り捨てて、方向を違えて、彼の画業などご紹介しつつ、僕が思うところの、「有元利夫展を観る前に知っていると、もっと彼の絵が楽しめるかもしれないだろう幾つかの事柄」(いい加減長いよ・・・^^;)を並べてみることにしてみました。有元さんをまだあまりよく知らない方々に興味を持って頂けましたら、幸いです。


画家となるまでの簡単な生い立ち
 有元利夫は1946(昭和21)年09月23日、両親が疎開していた岡山県津山市でこの世に生を受けました。男ばかりの4人兄弟の末っ子でした。
 利夫が生まれてから僅か3ヶ月後、彼の一家は戦前の住まいがあった東京都台東区谷中へと戻ります。生家は東京で手広く貸家業を営んでいましたが、戦災でその殆どが焼失してしまい、戦後の何も無い世の中、もっと手堅い商売をと考えて、彼の父は文具店を始めるのです。

 商売柄、道具には全く不自由しなかっただろう家で、利夫は絵を描くのが大好きな少年に育ちます。

 谷中と云う、上野とすぐ隣り合わせの町で暮らしていた彼には、例えば西洋美術館など子どもの頃からよく知った場所。家からその美術館へ至る道の途中には、東京藝大も在りました。こうした環境も、利夫を芸術の道へと向かわせる要因の1つになったのです。
 その藝大へ入りたい一心で四浪し、5度目の挑戦でデザイン科に入学した利夫。彼の藝大時代のお話は、かなり面白いエピソードでいっぱいなのですが、それは彼の日記や容子夫人の書いた本を読んで頂くとして、藝大3年生になる春休み、利夫は1ヶ月近くヨーロッパを旅行し、そこで本場の西洋美術に触れることになります。

 欧州へ旅する3年ほど前、京都・奈良へも旅行し仏画や仏教美術への新たな目を開いていた利夫は、およそ2000年も前に描かれたポンペイの壁画、フィレンツェではルネッサンスのフレスコ画などに出会い、粟立つ様な強烈な啓示を受けます。彼を魅了したのは、長い年月を経た絵の具の染み込み具合、そして風化した質感でした。更にシエナの地では13世紀に描かれた素朴な宗教画に触れ、「リアリズムは必要ない。偉い人だから大きく描く。きれいなものは、素晴らしいから大きく描く」と云う点で、その中に日本の仏教絵画との共通項を見出すのです。

 古人の残した芸術を理解せずに、新たな創造など不可能だとの意を強くした彼は、藝大をフルに活用し、箔の使い方など日本の古典美術に於ける様々な技法も習得していきます。そうして、その上で単にイタリアで見たフレスコ画をそのまま模倣するのでなく、日本の岩絵の具を使ってキャンバスに乗せてみたら、と云う独自のアイディアを思いつき、有元利夫ならではの画風を確立して行くこととなるのです。



1.ピエロ・デッラ・フランチェスカとは?

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◆有元利夫 / 『私にとってのピエロ・デッラ・フランチェスカ』(1973) 東京藝術大学買い上げ
※10点連作の内の1点。尚、この写真は作品一部をクローズ・アップしたものです。

 イタリアで出会ったフレスコ画に強くインスパイアされた有元は、大学4年の或る日、古本屋で薄っぺらな画集を手に入れます。それが、イタリアにおける初期ルネッサンスの画家、ピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero della Francesca : 1415~20年頃-1492年10月12日)の作品との出会いでした。60年代には当時の反体制的な時代の空気の中でコンセプチュアル・アートを手掛けた事もありましたが、もはや彼はこれらの古典からの影響を隠そうとせず、藝大の卒業制作にその名もズバリ、『私にとってのピエロ・デッラ・フランチェスカ』と題する10点の連作に挑戦します。上の画像はその内の1点(作品の一部をクローズ・アップ)ですが、ご覧頂ける様に、中世的な衣装で馬に跨る人物を、非常に平面的な画面構成を用いて、古いフレスコ画を彷彿とさせるタッチで描いてみせたのです。

 このピエロ・デラ・フランチェスカと云う画家がどんな絵を描いていたかと云うと、実は現在の日本ではあまり多くはその作品が画集などで紹介されていない様なのですが、とても有名な肖像画がフィレンツェのウフィッツィ美術館に収蔵されています。

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◆ピエロ・デッラ・フランチェスカ / 『ウルビーノ公爵妻の肖像』(1472~74年頃)

 このモデルはルネッサンス期の中部イタリア(今のマルケ州辺り)に位置したウルビーノ公国の領主、勇猛な武人であると同時に文芸の大いなる保護者であったフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公(1422-82)とその妻バッティスタ・スフォルツァ。

 物の見事に真横を向いた肖像画ですよね。実はこれには事情が有るのです。武人として勇猛で知られるフェデリーコ公は槍合戦で鼻が曲がり、右目は失っていました。公と親しい間柄だったピエロはそれを気遣い、この様な構図を取った、とも云われているのです。

 公爵の背景には、モンテフェルトロ公の領土であるウルビーノの丘陵地帯と思われる光景が正確な遠近法(※画家には『絵画遠近法』と云う著書がある)を伴う細密な描写で描かれ、肖像の正確な描写と合わせて、この画家がフランドル派など、北方絵画様式の影響を受けていることを示していると、ウフィッツィの図録には書かれています。

 そして、実はこの肖像画の裏にもピエロ・デッラ・フランチェスカは絵を描いているのですが、有元が描いた『私としての・・・』の白馬は、おそらくこの絵を参考にしていたのではないでしょうか。

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 スキャンした図録の絵が、元々あまり鮮明な写真でないので判りづらいのですが、二頭立ての馬車を駆る銀の甲冑姿の武人は、おそらくフェデリーコ公でしょう。

 余談ですが、塩野七生の読者やチェーザレ・ボルジアがお好きな方向けのインフォメーションとしては、1502年にチェーザレがウルビーノに攻め込んだ際、戦を避け、ほんの数人の供だけを従えて逃げたウルビーノ公グイドバルドは、このフェデリーコの息子です。


 【 この頁、#2(→http://ilsale-annex-3.blog.so-net.ne.jp/2010-08-05)へ続きます 】




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